2004.7.21 手術
いよいよ手術当日です。朝10時ごろかん腸をされたのですが、これ、下痢に弱いあたしには拷問のように辛かった。トイレとしばしお友達になってしまいました。
部屋へ帰るとベッドにはすでにラバーシーツ(シーツの汚れ防止のために敷く、ブルーの布)が敷かれて、点滴セットや心電図が用意されてあった。うわ〜っ☆って思ってドキドキした。
腹はまだすっきりしなかったが、担当看護師のFさんに言われて、手術衣(水色の浴衣みたいな感じのもの)に着替えた。
その後すぐに点滴されて鼻から胃へチューブを入れられた。このチューブがまたかなり苦しくて何度も吐きそうになった。入れられた後はしゃべるとのどが痛かった。

昼過ぎに家族が来た。
「うわっ、はやチューブ入れられてるんやね。」とかいろいろ話し掛けてきたけど、のどが痛いのであまり話せなかった。

そして1時ごろ肩に筋肉注射を2回された。1回目はさほど痛くなかったが、2回目のがめちゃくちゃ痛くて涙でた。思わず「もう、最悪・・・。」ってつぶやいてしまった。
「これからが痛いのに、今泣いてどうするんね。」と母が言ってた。
しばらくすると強烈な眠気が襲ってきた。午後2時前にFさんが呼びに来た時ストレッチャーには自分で乗ったけど、頭がぼーっとした状態で手術室へ連れて行かれた。

手術室に入ったら、名前と年を確認された後手術台に乗せられた。
手術室のライトはテレビとかで見るのと同じ丸いライトだった。
すぐに服とパンツを脱がされた。でも別に恥ずかしいとか思わなくなっていた。とにかく眠かった。「今は酸素だけですからね。」と口にマスクをあてられた。
いろんな人がせわしく動いているのを他人事のように眺めながら、ふわふわした気分になって意識が遠のいていった。

「体温○○℃、尿量200ml・・・」等々男の人(多分OT先生)が言ってるのがぼんやり聞こえた。
誰かが足もんでくれている。この人マッサージめっちゃうまいな〜、気持ちいいな〜とのんきに思ってたら、ほっぺたを軽く揺すられた。
目を開けるとH先生が「大丈夫?」と何度も言ってのぞきこんでいた。うなずくとOT先生が気管に入れてた管をさっと抜いた。
手術はいつの間にか終っていた。いつ麻酔したのか全然覚えてないのに。筋肉注射だけで眠ってしまったんだろうか。
足には足もみ機械がつけられていた。気持ちいいって思ったのはこれだったのか。
(肺塞栓症防止のため、手術を受ける人にはみんなつけるそうです。肺塞栓症というのは、血の固まりで肺の血管がつまること。エコノミー症候群のことです。)
OT先生が「卵巣は異常なしです〜!中皮腫です〜!!」ってどっかにむかって叫んでて、(あ、卵巣どうもなかったんだ)とほっとした。
しかしその瞬間ものすごいお腹の激痛が☆
半端じゃない痛さで息が苦しかった。浅い息しかできなかった。何度も深呼吸して!って言われたけどできなかった。

酸素マスクをつけられて病室へ戻ったのは5時すぎてたらしい。
手術は結局3時間かかったそうです。切ったのはへその下と胸、わき腹の3箇所らしい。わき腹には浸出液を体外に出すための管がつけられていた。
腫瘍の大元かもしれないと予想されていた卵巣ですが、O先生と産婦人科の先生とで確認した結果、正常だったと聞かされました\(^O^)/
結局腹膜にできていた腫瘍を切除して東京に検査に出したとのことでした。良性か悪性か結果が分かるのは3週間後だそうです。
卵巣がどうもなくってほんとうによかった…(^-^)
もし腹膜の腫瘍が悪性でこの先転移するなんてことがない限りは子供を産むことはできる。
ピーたん達、手術成功したからね。姉ちゃんまだまだ頑張れるよ☆





2004.7.22 痛い日々
日記がようやく書けるようになったのは術後4日目だった。
術後の記録に関してはあまり詳しく書かれてないため、記憶を頼りに書き進めることにします。

7月21日(手術当日の夜)

術後、麻酔はまだ残っていたようでずっとうつらうつら眠っていた状態だった。
点滴は24時間入れられ、酸素マスクもしたままだった。
O先生とかいろんな人がひっきりなしに様子を見に来ていたようだが、あまりよく覚えていない。
傷口が痛むので、消灯してから痛み止めの点滴を打ってもらう。
付き添いの母に「おしっこに行く」と言ったら「管を通して出てる」と聞いて、はじめて膀胱に管を入れられていることを知った。
1時間ごとくらいにナースが検温や血圧の様子を見に来ていたように思う。
手術の時は気持ちよかった足もみ機械が、グニョグニョした感触で気持ち悪く感じる。自動血圧測定器が時々血圧を測るので腕も痛い。鼻から胃に入れられたチューブも気持ち悪い。
痛み止めが効いている時以外は全然眠れなかった夜だった。

7月22日

朝早くにOT先生が「少し楽にしてあげるからね。」と酸素マスク、胃のチューブ、血圧計、足もみ機械をはずしてくださる。
痛み止めの影響で意識はうつらうつらした状態。
看護師さんが体の清拭と着替えをしにくる。体位を変換された時肉が裂けんばかりの傷口の激痛に泣いてしまった。
レントゲンを撮りに来た時も傷口の激痛で泣いてしまう。
自力で寝返りが打てないため、数時間おきに背中に枕をさしこまれて体位変換される。
タンを出しやすくするために、毎日朝晩2回のどの吸入を開始する。
その晩、タンが大量に出始める。傷口の激痛で自力で出せず、あやうくタンをのどに詰めそうになる。
婦長さんが自ら吸引機でタンを吸い取ってくださった。
一晩中タンがのどでゴロゴロ言って、そのたびに看護師さんに吸引してもらっていたのであまり眠れなかった。

7月23日

痛み止めの影響で意識はまだうつらうつらとした状態。
朝、清拭と着替え(肉が裂けんばかりの激痛は相変わらず。またまた涙がでる。)をした後、車椅子でCTを取りにつれていかれる。
車椅子の乗り降り、ベッドで起き上がるときがまた死ぬかと思うくらい傷口が痛くて泣き叫んでしまう。
O先生から「無気肺(呼吸が浅いので肺の一部がつぶれている状態。放っておくと最悪の場合肺炎になります。)を起こしているので、傷口が痛くても深呼吸をするように」と注意される。
酸素濃度測定機で血液中の酸素濃度を測ったら90パーセントだったので、この日から3日間くらい鼻に酸素の管をつけられる。
昼、内科の病室で一緒だったばななさんがお見舞いにくる。今日退院されるとのこと。おめでとうございます。
他の内科のメンバーはすでに退院していて、最後まで残ったのはあたしになってしまった。
熱が39.1℃出たので解熱剤を筋肉注射される。

7月25日

24時間点滴だったのが、抗生物質を朝晩2回点滴するだけに変わる。
昼、内科の病室で一緒だったりんごさんがお見舞いにきてくださった。
ようやくおならが出たので、夕食から術後食(ご飯のみおかゆで、おかずは普通食だった)を食べれるようになる。
りんごを甘く煮たものやプリンなど、甘いものがおいしく感じる。
ある看護師さんにコツを教えてもらって、ようやく自力でタンが出せるようになる。

7月27日

おしっこの管がようやく抜ける。抜くときベリリッと紙をはぐような感じで痛かった。
昼、Fさんが髪を洗ってくださった。行きしは洗面所まで自力歩行をする。(帰りはストレッチャーに乗せられる)
傷口の痛みは強いものの、看護師さんに車椅子に重いドレーンの機械(わき腹から出る排出液をためる機械)を乗せてもらって、自力でトイレにいけるようになる。
夜、母に車椅子で散歩に連れて行ってもらう。

7月28日

多分この日ぐらいから主食がふつうのご飯になったと思う。
トイレのたびにナースコールをするのは気がひけたので、自分で行くようにしようと思って車椅子を使わずに手でドレーンの機械を持ってトイレに行くようにする。
回診のとき、ドレーンはいつ抜けるのか聞いたら、管から出る排出液の量が100ccを切ったら抜く予定だと言われる。
看護師さんが、OT先生がタンの検査をするので容器にタンをとるように指示があったことを伝えにくる。
このごろ吸入をしてもタンは出なくなったことを言ったけれど、取れなければ吸引機で強制的に取るとのこと。出せって言われても、でないもんはでないよ〜!



2004.7.30 やっと管が抜けた!
朝、くそ重いドレーンの機械を左手に持ってえっちらおっちらトイレに行っていたら、回診中のO先生とH先生に会いました。
「もう(排出液の量が)100ccきったから、今日の回診の時管抜こうか。」とO先生が言った。
やったー☆やっとこの重〜い機械から開放されるのだ。管も抜けて身軽になれる(^▽^)♪

それから1時間くらいしてH先生が病室にやって来た。
「今から管抜くからね。まずは息を止める練習しようか。」と言われて、息を止める練習。
しばらくしたら麻酔を打たれた。
あたしが痛くなくなったのを確認してから「管抜くからね〜。はい、1,2の3っ!」スポーン☆
管はあっさりと抜けた。何の痛みも感じなかった。
看護師さんが傷口を消毒してからH先生は「今から傷口縫うからね。はい、息を止めて〜。」と言った。


「・・・。(息止めてます)」
「もういいよ。・・・はい、じゃあまた止めて〜。」
「・・・。」


四回くらい息吸ったり止めたりして、傷口は閉じられた。
麻酔してるから当たり前なんだけど、全然痛くなかった。ようやく身軽になれた。

さすがに昼くらいになって麻酔が切れてきたら傷口がズキズキと痛くなってきた。熱も38℃2分にあがった。
看護師さんに1階のレントゲン室まで歩いて行くように指示されて、腹を押さえながらゆっくり歩いていったんだけど、キツかった〜。
帰りはレントゲン室の人に車椅子で送ってもらいました。

3時ごろリハビリの先生が来て、足に1kgの重りをつけて上げ下げする訓練もした。しんどかった・・・。(熱出てるのに・・・)
明日からはリハビリ室のほうへリハビリしにくるように言われた。
一応自分で動けてるのにリハビリなんて必要なんかな。
4時過ぎに看護師さんが抗生物質の点滴に来た時、とうとう強制的に吸引器でタンとられました・・・(涙)。苦ぢかったぁ〜!
OT先生、鬼だ〜!!(笑)
でもまぁ傷が痛いのも日にち薬だろうし、ようやく普通に歩けるようになってとりあえずよかった1日でした。



2004.8.1 抜糸
今日の回診はO先生、K先生、OT先生の男三人衆だった。
昨日の回診の時、OT先生とH先生が卵巣のところ全部、胸のところを半分抜糸(正確には 抜鉤 ばっこう と言うそうですが・・・。)してくださった。
傷は糸ではなく、ホッチキスのようなものでとめられていた。
O先生が胸のところに半分残っていたホッチキス?を全部抜いてくださった。抜くときの痛みはそんなになかった。
しかし・・・恥ずかしがってはいけないんだけど、男3人衆が人のパジャマめくってパンツさげて、腹やら胸やらじっとみてるのは何か落ち着かなかった(笑)
病院だから仕方ない。先生たちだって見たくて見てるわけじゃないんだろうけどさ。
紅一点のH先生は今日はお休みのようだ。
O先生が消毒してくださった時、くすぐったくて笑ったら、「もっと笑わしたる。」とさらにくすぐられた。
K先生もニコニコしながら傷口に大きなガーゼを貼って下さった。
ずっとお風呂に入れず、あちこちがかゆくて気持ち悪かったので「お風呂に入りたいです☆」と言ったら、O先生が「そりゃ入りたいわのう。専用のばんそうこう(強力な防水効果あり。)貼ったら入れるよ。」と言ってくださった♪
卵巣の傷口は少し開いているが、閉じるのは時間の問題との事。胸の傷は完全に閉じていた。
ドレーン入れてたとこの傷跡はいまだにズキズキ痛むが、胸と下腹部はようやくひきつったような傷の痛みから開放された。
大部屋行きももうすぐだろう。
あとは手術で取った腫瘍の検査の結果待ちだけである。それにしても結果が出るまで3週間っていうのは長いな・・・。



2004.8.7 お祭りの夜
8月7日は私の住んでいる市のお祭りの日でした。
あたしの入院している病院のスタッフの方々もたくさん踊りに参加されていました。
夕方、病院の玄関前で踊りの披露があって、スタッフの方々と写真撮ったり、踊りを見たりしてその時はそれなりに楽しかったのですが・・・。

夜、9時半から花火大会がありました。
どうしても花火見たかった。市の祭りのイベントの中では花火大会が一番好きなのだ。
その頃38℃2分熱あったんですが、解熱剤を飲んでいたし、大丈夫だろうって思った。
花火のよく見える場所探してうろうろしていたら、階段から屋上へ人が登って行ってたから(屋上、開いてるんだ〜^^)とその人たちについて行きました。
屋上へ行くと50人くらい人がいた。患者さんは2〜3人くらいであとは家族連ればっかり。(患者さんの家族にしては多いような・・・スタッフの家族なんかな・・・?)
入り口の近くのでっぱりのとこに座って花火を見ました。暑いのと、解熱剤が効いてきたのか汗がだらだら出た。
屋上から見る花火は下のほうのもよく見えて最高にキレイだった。ちょうちょの形した花火や土星花火、お化け花火(とてつもなくでかい花火で、勝手にこう命名してます^^)など色とりどりの花火が次々あがって ぼ〜っと見とれてました。
ふと隣見ると知らない兄ちゃんが携帯で花火撮ってて、(あ〜、あたしも持ってきたらよかったな〜☆)って思った直後、あたしの目の前に一人の男の人が来た。
後ろ姿なので誰か分からなかったんだけど、突然その人の目の前にいた女の子たちが黄色い声をあげた。
「きゃ〜vvv○○○○、おかえりなさ〜い(^▽^)☆」
「あ〜お久しぶりですね〜!今までどちらへ行かれてたんですかぁ(*^。^*)♪」
(これ以上会話を書くと誰の事か特定されてしまいますので省略。)
などとその女の子たちと楽しそうに会話しながら、男の人は花火見ていた。

今まで楽しかったお祭り気分が一転して暗くなった。
一見何でもない、病院のスタッフ同士の会話なんだけど。
悲しくなって少し離れたところに座りなおした。
気を取り直して花火見てたんだけど、だんだん花火がぼ〜っとにじんできた。
目が熱くて、次々しょっぱいのが流れてくる。
ずっと前からひそかに気になってたスタッフさんだったのだ・・・。
手を伸ばせばその人の服に届くくらいすぐ近くに座っていながら、感じたのはその男の人との距離だった。
声かけれる雰囲気じゃなかった・・・。その男の人と女の子たちの間にあたしの入れない絆を感じた。
病院のスタッフ同士って仲間意識すっごく強いんですよね・・・。だからわりとべったりした雰囲気ある。それは分かっているけど。
普通に声かけたらいいじゃん、って思う人いっぱいいると思う。確かにそうなんだけどね・・・。
でもその男の人の反応が怖くて。あたし患者だから気使うかなって・・・思って・・・。
これが他の男の人なら別に何とも思わなかっただろう。
(仲いいな〜(*^。^*)♪)くらいで。
でもその男の人だとすんごくせつなくなる。

その人は結婚して子供さんもいる。好きでいても口に出すことはこの先もず〜っとない。
でももし独身だったとしてもやっぱ口には出さない。
今の関係(スタッフと患者)が一番心地いいから。
その人と会った日や話できた日は、花火みたいにぱぁっと開くようなそんな気持ちになる。
手術後も相変わらず38℃〜39℃代の熱が毎日出るけど、 その時だけは辛い熱の苦しさや術後の傷の痛みの事忘れていられる。
例え報われない思いでもそういう人に出会えたことは、ある意味幸せなのかな・・・。
でもこんな会い方するとすっごくせつなくなるよ。
早く退院してその人よりも素敵な人、見つけなきゃ。
それまでは・・・好きでいていいよね(*^。^*)♪
ちょっぴり甘酸っぱい夏の夜の思い出でした☆
(退院した今、これ読むと何かこっぱずかし〜(*/▽\*)でもいい思い出として残しておきたかったから書いてみた^^)



2004.8.8 大部屋へ
今日は大部屋に移る日でした。
けれど、前日の出来事で心がぐちゃぐちゃになってしまっていたあたしはほとんど一睡もできなくて朝から上の空。
朝ご飯も食べれなくて、荷物の整理をしていました。
朝食後様子を見に来た看護師さんの前でとうとうぽろぽろと泣いてしまいました。
「どうしたん?大部屋に変わるのが辛いんかな。よかったら話してみて。」って心配してくれたけど、「ううん、大部屋のことじゃないんです。大丈夫ですから。」って答えるのがせいいっぱいだった。
こんな事、言える訳ない。

9時ごろ別の看護師さんが「今からお部屋変わりますね。」って言ってきたけれど、あまりにもぼんやりしてるあたしの様子を心配してか、「面会室のほうへ行こうか。その間荷物新しい部屋に全部運んでおくから。」って言ってくれた。
面会室で待っているとしばらくしてさっきの看護師さんが呼びに来て一緒に新しい病室へ行った。
大部屋の106号室。前に内科でいた206号室の真下の部屋だった。
ベッドの位置も内科の時と同じ入り口側だった。
新しい同室の人には「よろしくお願いします。」と何とか笑顔(になってたかどうか・・・)であいさつした。
「ほのぼのしてていい部屋ですよ^^」と看護師さんが言った。
同室の人はめろんさん、ももさん、耳の病気のおばあちゃん、あたしの4人だった。
みんなにこにこしてあいさつしてくださった。何かこの部屋はなじめそうだと直感で思った。

しかし、昨日のことが頭の中をプレイバックして気分はますます落ち込む一方だった。
10時頃O先生が回診に来た時もつい涙がポロリ。
O先生がお腹を消毒してくれる時はいつもくすぐったくて笑ってしまうのに、笑えない。


O先生「今日は何か元気ないな・・・。熱が出るんが辛いん?」
あたし「・・・。」(黙って首を横に振る)
O先生「わしらには言えんことかな?」
あたし「・・・。」(うん、と首を縦に振る。胸がつまって声が出ない)
「そっか・・・そういうこともあるわな・・・。」


O先生が行った後、しばらくしてFさんが検温に来た。
Fさんの顔を見たらますます涙が出た。
「何かあったん?話してみたら気分が楽になるよ。」と言ってくれた。「何でもないですよ。」って言ったけど、辛抱強くあたしが話すのを待っててくれたFさんにとうとう打ち明けた。
看護婦さんになんか話したらそれこそ病棟中に広まるかもしれないって思ったけど、泣き疲れてどうでもいいって気分になった。


あたし「誰にも言わないって約束してもらえますか?」
Fさん「もちろん誰にも言わないわよ。話してみて。」
あたし「昨日の花火大会である人があたしの目の前で女の子たちと仲良く話しているのを見たら辛くて・・・。こんな事でなんか泣いて情けない。あたし心の病気なのかもしれない!」(等々花火大会でのできごとを話す。)
Fさん「ぷーやんさんは心の病気なんかじゃないよ。病気が言わせてるだけだと思う。でもね、恋をするのは素敵なことよ。その人のことを考えている間は病気のこと、忘れていられるでしょう?」
あたし「はい。確かに昨日から熱のこととか全然考えてませんでした。」
Fさん「そうでしょ?だからね、素敵なことだって思わなくっちゃ^^」
あたし「でも・・・やっぱり辛い。何も目の前で話さなくっていいのに!」
Fさん「△△△△(とある外科スタッフさんの名前)かな?」
あたし「ううん、前に内科でピー(これ以上は省略。)のことです・・・。」
Fさん「そっか・・・。○○○○はね、誰にでも優しいんよ。でもね、その女の子たちとは特別な気持ちでなんて話してないと思う。ぷーやんさんには悪いけど言わせてもらうね。 病院ってとこはね、スタッフ同士はみんな戦友なのよ。だから必要以上に仲良くしてるみたいに思うかもしれないけど、病院ってそういうところなの。」
あたし「そうなんですか・・・。外科に移ってからはなかなか会えなくて・・・。今まで会ったの2回だけで。」
Fさん「2回も会えたの?あの人はね忙しい人なの。それに普通ね転科したら知らん顔されるもんなのよ。それを2回も会ってお話してくれるのはぷーやんさんのこと(患者さんとして)気にかけてくれてるからだと思うのよ。 他の患者さんも○○○○はなかなか来てくれない、って言ってるくらいなのよ^^」


Fさんに話してしまったら少しだけ気持ちが楽になった。
実生活ではこんな事は友達にしか言わないし、ましてこんなことで人前で泣いたりしないのに。
病気になるとこうも気が弱くなってしまうものなのだろうか。
今思い出すとすっごいこっぱずかしいよ〜><。
これもしんどい入院生活での甘酸っぱい、いい思い出かな^^;

話は変わって・・・。
外科の大部屋は内科と違って静かだった。
切ったら治る人ばかりだったせいか、めろんさんが退院した後は短期間でころころメンバーが入れ替わった。
だけど内科部屋に比べると昼間でもほんと静かで(傷口が痛む等で、話ができないのもあるとは思うが)、退院まで気をあまり使うことなく過ごせた。

めろんさんは乳がんの方だった。
にぎやかな人だったけど、面会の人たちと話すときは外へ出たりして気を使ってくださる方だった。
誰とでも友達になる人で、あたしにも初対面から気さくに話し掛けてくださった。
そんなめろんさんだったが、旦那さんや親兄弟とは早くに死に別れて、子供もおらず天涯孤独の方だった。
退院する時、「あたしは家族いないからこういう時も1人なんや。」とあっけらかんと笑顔で言ったのが印象的だった。
1人ぼっちでも強く明るく生きるめろんさんのことは今でも尊敬している。
あたしもあんな風に強くなりたいって思う。

ももさんは消化器系の疾患(多分腫瘍かな・・・)の方だった。
耳が少し遠い方だったが、あたしの顔を見たらいつもにこっとしてくれて可愛いおばあちゃんだった。
いつも一緒にリハビリに行っていためろんさんが退院した後は、あたしを毎日リハビリにさそってくれて一緒に行った。
ももさんも日記をつけていた。
あたしが日記を書いていると、一度話し掛けてきたことがあった。
ももさんはトイレに行った時間まで日記につけているそうだ(◎_◎;)
あたしの日記の内容と言えば、食事の悪口&恋の悩み?(ははは。)ばっかりなのに・・・恐れ入りやした(笑)。

一波乱?あった後、大部屋での一日は静かに過ぎていきました。